喫茶まりもにて
久しぶりにゆったりとした時間ができて。嬉しい。と言ってもやらねばいけないことがあって、そのための時間なのだけど。
時は金なりというけれど、本当にそうだと思う。それでも過活動のあたしは、その時間にいろいろ詰め込みすぎて、お仕事だって目先のお金にしかならないのに、それでも詰め込んで、ときどきアップアップしてしまう。水面に近寄ってくる金魚のように。
時間があるのなら戯曲を書いたり文章を書いたり、今後の芝居のことを考えねばいけません。だってあたしはそれがやりたいんだもの。それはわかりきっていることなのに、あたしはいつだって怠惰。でも無理な理想や目標よりも、ありのままに貪欲ということ大事なのだと、今年になって自覚致しました。これもどれも野枝のおかげ。
今、青鞜の本を読んでいて。あたしがこの時代に生まれていたならば、確実に青鞜に参加したと思う。もしかして前世のどれかでは参加した誰かだったのかも。大正のこのあたりの女性はどれも好き。どの人の人生も熱くって激しくてうっとりしてしまう。こんな生き方をしてみたいと切望する。
嵐山光三郎さんだったり寺山修司だったりが大正の女性達の生き方・恋愛についたコラムを本を田Hしていて、こういう類いの本は大好物。そしてどの女性もすごいなーとただただ脱帽。あたしはなんて甘ちゃんなんだろう。
今回読んでいる森まゆみさんの『青鞜の冒険』は平塚らいてうを中心にして進んでいるんだけど(青鞜の一応創始者であり責任者がらいてうだからね)、どうも野枝より好きくない。高飛車なところかな。都会うまれのブルジョワで、九州の漁村で育った野枝とは大違い。それはそうなのだけど・・・。森さんがあまりらいてうを良く思ってない感もあって、余計にそう思うのかもしれません。栗原康さんは野枝を絶賛のもと、野枝の伝記を書いていたから。もちろん良く書かなきゃいけないなんてないし、公正を期すためにはプラスもネガティブも両方書いた方が良いに決まってる。けど、やっぱり野枝絶賛で書いていた栗原さんのあの書き方は気持ち良かったし、読んでて楽しかった。その影響もあってあたしも前にもまして野枝信者になってしまった。
青鞜は名前の由来も良い。ブルーストッキング。18世紀後半のロンドンのサロンに集まり文学などを論じた婦人達のこと。彼女たちは青い靴下を履いていた。
うん、あたしが青が好きだから、余計に好ましく思えるんだろうな。きっとこれをもっと知っていたらビニヰルテアタアの名前も変わっていたかも知れません。
きっとあたしは明治に生まれていたら青鞜に参加して、昭和中盤に生まれていたならば学生運動に身を投じていたでしょう。じゃあ、今は? 今は何に投じてる?
それでも自分の好きなものや興味を持っているものは、とても素晴らしいものばかりだと思う。漫画狂の父親を持ち、20歳で唐組に飛び込んだところから、どれもはじまったのだけど、素敵なことに興味を持っているという自負はある。特に今年に入ってからそれはまたぐんと広がり、学生運動や赤軍などにも知れてよかったし、いわゆるアンダーグラウンドを好んでいることはあたしの誇り。
純喫茶、銭湯、ストリップ劇場、古本屋、渋い街角、あたしが日々訪れる素敵な場所たち。
あたしはどれも存在しているこの世界に生まれて、これらを愛して、とても充実している。