3月11日のこと。
2011年、5年前のあたしは渋谷センター街にいた。
大嫌いだった金券屋の仕事中で、店内はあたしとお客さんが数名。店員はひとりだった。
最初に壁にかかった映画の前売り券が揺れた。揺れた気がしたのかもしれない。そして確実に揺れているとわかった時、地震だと気づいた。でも店内にいた客は気づいてなくて、店員のあたしが動揺するわけにも地震ですよと言うわけにもいかないと思い、そのまま業務を続けていた。するとひとりの客が「地震!」と叫んで他の客と一斉に外に出た。ひとり残されたあたしはお金と商品をほったらかすわけにもいかず、店の入り口で立ち止まる。1階だったので、そこからセンター街が見渡せた。道行く人も立ち止まっていた。ぐらんぐらんと揺れる。立ち続けるのが難しく、目眩を覚えるようによろけながら、この古い建物が密集する汚い街であたしは死ぬんだと思った。あたしはその頃渋谷センター街が大嫌いだった。
その日は待ちに待ったJAXAとの合コンであたしは朝から浮かれていた。JAXAに知り合いがいるという金融機関に勤める親友に頼み込んで、何ヶ月も待ってこぎつけた合コン。合コンが目的というのではなく、JAXAの人たちと話してみたかった。どんな思想でどんな視点で仕事に宇宙に臨んでいるんだろう。あたしは宇宙には興味がない。だからこそ会ってみたかった。繰り返す星空は好きだけど、宇宙旅行には頼まれても行きたくなかった。あたしはこの地球で死んでゆく。
地震がおさまり営業を続ける店内で、ただひとつの心配はその合コンが無事開かれるかだけだった。何の情報も入ってこない小さい店では外の世界は滞りなく続いていると思っていた。もしかしたら電車が遅れるかもしれないな、そのくらいだった。
18時まで働いて、ネットや家族からの連絡で電車が動いてないことを知り、親友からも合コンがなくなったメールを受け取り、とりあえず電池がなくなりかけている携帯のために、充電器を求め近くの大型電気店に行った。1階はテレビ売り場でその何十台もの薄い板の中では「国内史上最大の地震」というテロップと崩れかけている街の映像が流れていた。一瞬、何処の国のことかわからなかった。そんなことが起こってる国があるんだと驚いた。何かの拍子にそれが日本であることがわかった。まさかこんなことになっているなんて。
働いていた金券屋は非道だったので店内にスタッフは残るなということで追い出された。何かあった時に責任がとれないからということで、電車が動かず帰る手段がなく途方に暮れているスタッフを守るなんてことは全く考えてなかった。あたしはアルバイトだったのだけど、同じく追い出された渋谷店の社員の人とふたり渋谷の路上で、こうなれば会社のお金でホテルに泊まろうということになった。妻子持ちの男性社員。いやらしい意味はなかったと思う。でも泊まったらなにかあるかもしれないなと少しばかりの不安もあったけど、こんな時に何かしてきたら不謹慎だから何もないだろうという気持ちとなるようになれという気持ち半々でホテルを探しに道をいそいだ。渋谷の街は賑やかだった。非常時を楽しむ若者達は帰れないことをいいことに、道でも騒いでいて、どこかしこ人で溢れていた。飲みにいこうと皆、居酒屋やカラオケに入っていく。これじゃホテルなんてとっくに埋まっているに決まっている。いっそ見つからなければと思いながら、渋谷駅前にさしかかると、誰かが大声で叫んだ。「銀座線が動いたぞ!」その言葉に、あたしは銀座線なら父親の会社がある神田に行ける!とすぐさま男性社員に早口で別れを告げ、急いで銀座線に飛び乗った。すぐ乗ったのが幸いで、運転再開の1本目に乗ることができた。銀座線はその後集まったものすごい数の客に混乱し、2本か3本目でまた見合わせになってしまったそうだった。
神田駅では、途切れ途切れの混乱の電波の中でなんとか連絡をとっていた父親が待っていてくれた。神田は渋谷とは真逆で、駅の階段に座り込みうなだれるサラリーマンたちの悲愴で満ちていた。胸がキュッとなった。現実はこっちだと思った。そして父親の会社に行く途中よったコンビニでは、吃驚するほど棚がすっからかんになっていた。初めて見る光景だった。会社に着くと、普段すごく無口な父親もこの時は嬉しさもあったのか、娘のあたしを会社の人に紹介して回った。
会社でやっと落ち着いて、携帯も充電し、パソコンでいろいろと情報を探った。仙台では津波で何百人か飲まれたというニュースを見た。すごいことが起こっていると怖くなったが、実感がまったくなかった。狐につままれたような気持ちだった。もっともその後もっとすごいことが起こっていると知ることになるのだが。
母親は茶道の習い事で先生のおうちにいて、そこで泊めてもらうとのことで、家には誰もいない。父親とあたしは会社に泊まる覚悟だったが、深夜12時を過ぎたころメトロと東急東横線が動きはじめたことを知り帰ることにした。いつもの倍の時間をかけて家に帰る。地元の駅は地下8階くらいにあるのだけど、エレベーターもエスカレーターも止まっていて、ものすごい長い階段を父親とふたり上った。合コンのためのヒールが辛かった。父親が疲れていたので、鞄を持ってあげた。やっと辿り着いた我が家は耐震構造で特に揺れるようになっていたため、物が散乱していた。冷蔵庫はドアが開いてピーピーピー哀しく鳴っていた。そのままリビングで父親とふたり朝まで眠った。